手あてする ・ NPO法人気功協会ホームページ「気功のひろば」

手あてする 

手あてといったら何を連想しますか。
一般には、病や傷に対する適切な処置をいいます。
そして、文字どおりには、手をあてること。
少なくとも手あてという言葉が成立した時点では、この二つは同義であったはずです。
現代においては、どちらも原義から遠ざかっているように思えます。
医療の発達によって解決された問題もあることは確かですが、
医療に頼り過ぎることで、病人が増え続けている現状を見れば、真の手当とはいいがたい状態です。
また、手をあてるという行為も、だんだんに様式が複雑になり、勿体ぶった大層な手当が、
特別な人達により特別なシチュエーションで行われるようになってきました。
手あては、元々自然な感応によって行われるものですから、
うんうんうなって手から気を送るなどというのはかえって迷惑な場合があります。
ただ単に無心に手をあてる。
そのなかに現代が見失いかけている医療の本質と、言葉以前の豊かなコミュニケーションがあります。
だれでも無意識に手あてをしています。
おなかがきりきりと痛めば自然にお腹に手がいくし、歯が痛ければ、あごのあたりを押さえています。
アイタタタ… と、どこかをぶつけたりすると、打った処からしばらく手が離せない感じになります。
他人の場合はどうですか、
目の前でだれかが急に倒れた。ともかく近くへ駆け寄りますね。
言葉がけと同時にほとんどの場合、無意識に身体にふれていると思いますが記憶にありませんか。

思わず

「思わず…した」という行為ができるかどうかは、生死を分ける場合があります。
他の人に救急車を頼んだら、ともかく手をあてたい場所に手あてします。
緊急の場合ほど何の予備知識も必要ありません。  
ただ、こちらの生命と、相手の生命とが響きあい、
相手の生きる力を支えようという勢いがサーッと起こる。
手をあててから働きがおこるのではなく、駆け寄ろうと思った瞬間から起こる。
では、私には難しいからと腕組みして見ているのはどうか、これは論外です。
頭に支配されてはいけません。
ためらわずにともかく手を出せば自然の働きというものは生じるのです。
とっさに無意識の動きができるということを人間は訓練する必要があります。
意識というものの働きがとても強いからです。
意識と無意識のバランスがとれだすと、知らず知らず理想的な健康状態に導かれてしまいます。
ですから無意識の動きを訓練する方法は最高の健康法になります。

動静相兼

では、どのような訓練法があるでしょうか。
そうです、気功という素晴らしい訓練法があります。
気功の伝統用語では「意気相随」というのがそれで、
「動静双兼」というあたりがその具体的な訓練法を示しています。
意識を一言でいえば、大脳新皮質の覚醒、
無意識をひとことでいえば、からだの細やかな感じ、です。
頭であれこれ思うことと、からだの感覚とを同調させるというのが「意気相随」です。
従って気ということは、繊細な身体感覚のことをいい、気は無意識と言い換えても良いと思います。
功というのは、技能であり、そのことによって得られる大きな成果 を指しますから、
気功というのは無意識を訓練し、その成果を受け取る方法と言えます。
その、伝統的な訓練方法の第一が、「動静相兼」です。
動の中に静を求めると、動作はゆっくりなめらかになり、
静の中に動を求めると、じっとしていても闊達な感じで、心身がほぐれてくるのです。
こうした四文字熟語は、けっこうたくさんあって、便利に使われていますが、
文字面からだけだと中身が想像しにくいのが難点です。
それを逆手にとって、これが基本ですよ、これが要領ですよ、これが極意ですよと、
なんだかよくわからない四文字熟語を相手の頭の中に放り込んでおくと、
自分の力でなるほどという答えを見つけてくることがあります。
自分で発見するということは、たいへん力になり、貴重なものです。
しかし、判る人にしか判らないというのは、私たちが考えている気功とは少し違います。
気功はその本質を保ったままに、やさしくわかりやすくしていく必要があります。

自分をなくす

話を手あてに戻しましょう。
手あては、病気を治すというようなものでは毛頭ありませんが、
からだの働きを高め、育んでいく技術の最たるもので、
その効用は筆舌に尽くしがたいものがあります。
しかし、体を育むためだけに用いるかと言えばまたそうでもなく、
無意識の訓練としてもたいへんすぐれたもの、つまりそれ自体が気功として楽しめるものです。
人と人とがコミニュケーションをとるのは言葉だけではありません。
むしろ言葉以前にこの人は好きだとか、なんとなく好感がもてるとか、
言語以外に伝わるものの方が実際には大きく働いています。
言語が意識、非言語が無意識と大雑把に割り切ってもいいです。
この無意識のコミニュケーション、いわば気の交流というものをいかに深めていくことができるか、
ということが言葉以上にたいへん重要なのです。
手をあてる、それもなんの意識も用いず、ぽかんとして、自分をなくしてしまう。
もちろん体はあるが、自分という思い込みが一瞬でもフッと消えると、
存在そのもの、気そのものが、その根源で共鳴をはじめます。
技術ではない、しかし、ただ気持良いだけの遊びでもない。
魂が響きあう瞬間というのは、全身が賦活し、生き生きとした力が全身に漲ってくるのです。
ただ受けるだけでも、ただ与えるだけでもなく、お互いが高まるのが手あての本質です。
従って疲れない。
異なる気が自然のままに響きあえば、高めあうのです。
言葉も使いながらに覚えます。
手あても、自然体で気楽に行ってみることです。
そうそう、楽々悠々、これは上達の極意です。

気功生活Vol.15 より 転載