立つ ・ NPO法人気功協会ホームページ「気功のひろば」

立つ

はじめの一歩

はじめから立って歩ける人はいません。
生まれた時はうつ伏せにすればうつ伏せになったまま、仰向けにすれば上を向いたままで、
首を持ち上げることも、寝返りを打つこともできません。
私たちは当たり前のように立って、いろんなことができますが、
ニ本の足で立つということは、人間の成長過程で獲得する能力の中でも実に驚くべきことの一つです。
気功の一歩もまず立ち方から。
自分が立ち上がって歩き出した時のからだの記憶と感動をもういちど味わってみましょう。

自立

他の動物なら、生まれて暫くすると自分で歩いたり、走り出したりするのに、
ひとは歩き出すまでに一年もかかります。
いわば「完全なる依存」の状態で生まれてきて、一つ一つ自立の準備を進めていきます。
赤ちゃんは、全身のあらゆる感覚を働かせ、自分の手探りで、
毎日何か新しいことができるようになります。
こうして獲得していく一つ一つの能力は生きていくための本物の力になります。
ただし、まわりの大人が安易に手助けしたり、抑制したりしなければの話ですが。
赤ちゃんは、身の回りにあるありとあらゆるものを触りつくし、嘗めつくし、
穴が開くほどに一つの物を見つめ続け、味わいつくす。
その、自分で確かめるゆるぎない実感こそが自立への足掛かりなのです。
私たちは日常の生活の中で、自分の感覚を本当に使っているかどうか確かめてみる必要があります。
ではこれから自立、つまり自ら立つということの感覚を味わってみましょう。

静中の動

ちょうど、あかちゃんが初めて2本の足で立ち上がるように、
どうすれば立てるかを白紙の状態から全身の感覚を使って探りながら立ってみます。
腹這いになったところから、ひとつひとつ手探りで、できるだけゆっくりていねいに。
何か発見がありましたか。いつもと少しでも違う感覚があれば大収穫です。
はじめは緊張が強いですから、納得のいくまで、何度も繰り替えしてみると
どんどん余分な力が抜けて、自然な立ち方に近づいてきます。
でも反復練習のようになってしまうとまた違いますね。
同じようでいて、その都度、その都度、新しい発見があります。
かといってあまり神妙に構えず、気楽に探ってみてください。
ていねいに立ち上がってみれば、少なくとも立つということの微妙さがわかると思います。
立つということは、静止しているかのように見えて、
実に様々な無意識の微妙な動きを内包しています。
いわゆる「静中の動」です。
生きている人間は動きがあるから安定して立っていられるのです。
酔っぱらって意識が無くても、立っているし、自分の家まで歩いてたどり着いてしまう。
この内部の動きが止まると、ちょっとの力を加えただけでバタンと倒れてしまいます。
二本足の人形を安定して立たせる危うさと同じです。
コマはよく回っているほど安定して立っています。
自転車は走っていれば安定して立っています。
しかし、静止したコマを真直ぐに立てたり、自転車で止まったまま立っていられれば既に曲芸の域です。
人間が立っていることは外見上の動きはありません。
つまり、だれでも曲芸的な技術を日常的に使って暮しているということになりますね。
難しい技術をあれこれ工夫するより、そうした自然の働きに気づいていく事が大切です。

背骨を自由にする

安定して立つというのは、姿勢や意識の問題も大いにありますが、
常にバランスを取りながら自由に動いている、あるいは自由な動きが内在しているということです。
そのことを最も端的に実践しているのは、おそらく禅密功の立ち方です。
どの気功も心身のゆるみと自然な動きを大切にしますが、
禅密功では安定して立つための自由な姿勢がなんの飾り立ても、
また特別 複雑な要求もない「素のまま」の状態で体験できます。
禅密功の中心課題は背骨の解放です。
背骨が自由になると、動きは一変してなめらかになります。
背骨が自然に動く位置は、重心がちょっと後ろ寄り。
普通の感覚だと最も不安定な感じがするポイントです。
頭のてっぺんから尾骨の先までスルリと一本のやわらかな紐がぶらさがったような感じになると、
おだやかな動きがいつもそこにあります。
この空中に背骨が無重力で浮かんでしまったような千変万化の姿勢が、禅密功の安定姿勢です。
二本足で立った人間のみが獲得した微妙なバランス感覚。
それは、背骨に新たな負担や偏りを与えた反面 、背骨の解放を伴って、
からだもこころも自由な大海原に解き放つことを可能にしました。
冥想の姿勢は、ゆるんで動きがあるほどいいですね。
動いているのか動いていないのか、意識なのか無意識なのか、
有るのか無いのかわからないようなちょうどよい動きがうねりのように続いている。
その穏やかな水面の上にプカンと浮かんだように、心の焦点が自然と定まる。
冥想に特別な様式はいりませんが、背骨がゆるんでいることと、
有と無の間にただようような微妙な感覚を楽しもうとする心は必要でしょう。
気功態で立つ、つまり気功をするときの身体感覚を持ちながら立つということは、
そうした微妙な冥想状態にあるようなものです。
でも、それも特別 なことでは無くて、昔の人は日常的にそうした体の使い方をしていたし、
心も豊かだったと思うのです。

気功は自然に還るための便利な道具。
ただ立つことからも様々な気づきが生まれ、
気づきは私たちの体、心、魂を大自然の悠久の流れの中に連れ戻してくれます。

気功生活Vol.9 より 転載